人気ブログランキング | 話題のタグを見る

阿修羅掲示板の投稿の中でこれはと思ったものを転載します。


by wayakucha

Re: 倫理を構築しよう!

Re: 倫理を構築しよう!
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/631.html
投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 3 月 30 日 14:44:06: njbqC.Mf1PyZ2

(回答先: 倫理を構築しよう! 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 3 月 29 日 15:18:56)



 ワヤクチャさん、こんにちは。


 >倫理の欠如が様々な問題を引き起こしていると考えます。政治的に利用される教育勅語のようなものではなく、人類が普遍的に持つべき倫理を構築する事によって政治や社会を改革しましょう。殺すな。盗むな。他者の自由を奪うな。などです。

 “倫理の欠如”ではなく、人々の意識の内に倫理すなわち「基本的な行動(振舞の)規範」が形成されていない、あるいは共同体内部にもそれが醸成されていないのではないかと想っています。そして、人々の「想像力」の欠如こそが主たる原因を成していると考えています。
 概括すれば「想像力」には、自分の行為(言動)が相手(他者)の感情に与える影響(力)を情緒的に感知する能力と、自分の行為が相手(他者)の行動に与える影響(力)を論理的に類推する能力との二つの相がありますが、前者は主に家族的関係性の中で育まれ、後者は学校教育を含む社会集団的関係性の中で形成されていくものでしょう。而して、この縦糸と横糸によって紡がれるethos「習性」がethics「倫理」(=集団の護持規範)を構成していきます。現状の社会現象は、縦糸か横糸の、それとも両方の練磨不足や熟成不足を表象しているのかも知れません。

 >宗教の中にも倫理がありますが宗教は神の裁きを恐れて守るというような受動的なものもあり人間が自覚的に倫理的姿勢を自らの内に確立する上では弱いと考えます。意識的な倫理確立こそが必要ではないでしょうか?

 “意識的な倫理確立こそが必要ではないでしょうか?”との問いかけに関係する問題意識は以前より共有していると思っています。それには自身も含めて生物に内在するconatus「自己保存力」の様態の解析が出発点にも、回帰点にもなるのではないでしょうか。その成果(認識)を礎に倫理というある種の集団的制約を十分意識しながら、「自由」(=存在理由の完結)を実現していくのが人間の有り様ではないかと考えています。

 今回のレスは http://www.asyura2.com/08/idletalk30/msg/645.html 【周囲に精神のバランスを崩している人間がいないかどうか気を付ける事が大事なのでは? 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 3 月 29 日】に触発されたことによります。
 尚、相変わらず、教科書解説的な物言いで申し訳なく思っていますが、どうかご海容のほどを。 

 Auf Wiedersehen.
# by wayakucha | 2008-03-30 18:09
【橋下知事、あなたの意見は?】(12)「府庁の本庁舎、売却したら」
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080327/lcl0803272354007-n1.htm
2008.3.27 23:54
このニュースのトピックス:地方自治
 府営施設の見直しに向けて視察を続けている大阪府の橋下徹知事。これまでに対象25施設のうち、なみはやドームや府立体育会館など9施設の視察を終えたが、当初「図書館以外は不要と思う」とした知事発言に対する反響は大きい。大阪市内の自営業男性(54)のメール。

 《橋下知事に賛成。知事は、ハコモノは不要といっているが、ソフトを不要といっているわけではない。ハコモノがなければ、ソフトが運用できないという考えがハコモノ行政を生み出してきた元凶だ》

 70歳の男性は、女性総合センター「ドーンセンター」を例に《相談コーナーなどは必要だろうが、多目的ルームや会議室、プールといった施設は特別に必要ではない。必要な部分を別の場所に移したらよいのでは》と提案していた。

 一方、滋賀県で観光協会職員をしている男性(37)からのメールはやや別の観点からの指摘だ。

 《図書館を廃止しないというだけですでに聖域なき改革ではない。私も図書館は必要だと思いますが…》

 大阪府立の中央・中之島の両図書館の運営収支は2館あわせて年間約16億円の赤字。廃止の必要はないが、改善点があるかもしれないということだろう。

 この男性は《大阪府の場合、弥生文化博物館、近つ飛鳥博物館など考古学系博物館が充実している半面、古文書、民俗、建築などの分野が薄い。無駄というか偏った文化財行政をしているのでは》とも指摘する。

 さらに、出先施設をカットする方法は、本庁舎で働く職員から支持を得やすいからではないかとして《出先を切るよりもメジャーな部分を削る方が効果的。府庁の本庁舎を売り払い、河内長野市あたりで土地を借りて引っ越しすれば、歳出削減になるのでは》と大胆な提案をしていた。(河)
# by wayakucha | 2008-03-30 17:52 | 橋下大阪府知事
ダライ・ラマ会見、「銃で調和発展せず」・中国政府の対応批判【日経】
http://www.asyura2.com/07/asia10/msg/672.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 3 月 30 日 16:42:46: YdRawkln5F9XQ


ダライ・ラマ会見、「銃で調和発展せず」・中国政府の対応批判【日経】
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20080330AT2M2901V29032008.html

 【ニューデリー=小谷洋司】インド亡命中のチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世は29日、ニューデリーで記者会見し、「(中国の)胡錦濤国家主席は『和諧(わかい)社会』(調和社会)を唱えているが、銃や警棒で調和や団結は発展しない」と述べてチベット情勢への中国政府の対応を批判した。

 ダライ・ラマは多数派漢民族のチベット自治区への移住政策も「人口(構成の変更による)攻撃」と呼んで批判。漢民族の増加で「チベット独自の文化遺産が根絶されようとしている」と指摘した。さらに真偽は未確認と断ったうえで「北京五輪後に100万人が移住するとの情報がある」と明らかにした。

 活動方針については、チベットの分離独立ではなく自治権拡大を求める従来の「中道路線」の主張を繰り返した。独自文化を守れるだけの自治権が保証されれば「中国に残るほうが物質的発展の恩恵を受けられる」と語り、独立をめざす考えのないことを強調した。(29日 23:03)
# by wayakucha | 2008-03-30 16:54 | チベット
中国政府、ラサの暴動をでっちあげ(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
http://www.asyura2.com/07/asia10/msg/664.html
投稿者 kamenoko 日時 2008 年 3 月 30 日 03:55:15: pabqsWuV.mDlg

(回答先: 中国兵士が僧侶装い関与か 暴動でダライ・ラマが示唆(山陽新聞) 投稿者 kamenoko 日時 2008 年 3 月 30 日 02:32:25)


中国政府、ラサの暴動をでっちあげ(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所) 

2008年3月22日 エポック・タイムス/Phayul.com

警察官が“暴徒”を装う姿が目撃された。

抗議行動が僧侶による平和的な抗議であったという事実の信憑性を傷つけるため、中国政府がラサでの暴動を演出していた証拠が出てきた。

ダライ・ラマ法王の中国語の通訳ガワン・ニャンドラは、「刀を手にしたラサの中国人警察官がチベット人になりすまして抗議行動に紛れ込んでいるのを見た」するある目撃者からの報告を受けた。この目撃者は、BBCのニュース映像と、中国が発表した報道写真の中に、自分が目撃した中国人警察官が写っていると証言した。

目撃者はタイ在住の中国人(匿名希望)で、3月の騒乱が始まった時、ラサを調査していた。彼女には地元警察で警官をしている友人がおり、この友人を訪ねてたびたび警察署を訪れるうち、他の警官とも顔見知りになっていた。

3月14日に抗議行動が発生した後、彼女と他の外国人は警察署に送られ、そこでナイフを手に持った男が逮捕されたチベット人と共に歩いているのを見た。その後、同じ男がチベット服から警官の制服に着替えてあらわれたのを見たという。

翌日、彼女と他の外国人は、ラサから退去させられた。その後、ネパール経由でインドに到着した彼女は、BBCのテレビニュース、ならびに中国大使館がマスコミ向けに発表した写真の中に、自分がチベットの警察署で目撃したチベット服をまとった警察官の姿があることに気がついた。

「彼女は、自分が目撃した警官がBBCで放映されたことにショックを受けていました」とガワン・ニャンドラは語った。

目撃者は、インドにあるチベット人団体に連絡をとり、自分が見たことを伝えた。この団体は、3月17日の集会の場で、中国大使館がチベット暴徒として公表した報道写真の中に、扮装した中国警察官の姿があることを公に発表した。


中国大使館はメディアに向けて、集会の前と後の2回、写真を公表している。しかし、17日の集会の後で発表された同じ写真ショットからは、以前写っていたはずの変装した警官の姿が消えていた。

ガワン・ニャンドラいわく、「この男が写っている写真は、中国大使館がBBCやラジオ・フリー・アジアに宛てて送付したものです。他の写真は、集会の後に送付されたものです。二つの写真は、全く同じ写真ですが、後から送付された写真にはこの男が写っていません」

「テレビ映像を見ると、この男は刀で他の人を刺そうとしています。しかし、その後のシーンを見ると、この男はいなくなっています。彼らは演技をしていたのです。人々がこうしたシーンについて疑問の声を上げ始めたあと、この映像はテレビで流されなくなりました」

一般市民の抗議行動の際に、中国共産党が暴徒に扮した警官を紛れ込ませて、暴力を誘発し、抗議者を陥れる、というのは今回が初めてではない。中国人ジャーナリストのTang Daxian氏は、著書の「Events in Lhasa March 2-10, 1989」の中で、1989年の暴動を鎮圧した際の中国共産党の陰謀を暴いている。

この本によれば、チベット人が平和的にデモをおこなった数日後、中国共産党当局は、多数の精鋭部隊と私服警官を送り込み、市民と僧侶が暴動をおこしたように見せかけた。かれらは、経典や仏塔を燃やし、穀物商店その他に押し入り強奪し、他の市民に略奪に加わるよう呼びかけた。その後、軍と警察が残虐な弾圧に乗り出したのである。

今年の抗議行動における暴動シーンは1989年の暴動に酷似している。20歳代の若者の一団が、組織化された様子で暴動を起こしている。彼らは、まず最初にスローガンを叫び、次にラモチェ寺近くで乗り物を燃やす。続いて近くの商店に押し入り強奪し、最後に多数の商店に火をつけた。

こうした行為は、よく計画され、お膳立てされ、ある程度のスキルを持った者たちによって遂行されているように見える。ラモ・チェ寺近くの交差点では、何者かが、前もって2-3kg程度の同じ大きさの石をたくさん用意していた。不思議なことに、膨大な数の警察官や町中を徘徊している覆面警察の誰一人として、この石について注意する者はいなかった。そして、大規模な軍隊、警察、武装者が「この日、治安を守るため」に武器を使用したのは、ごく「当たり前」のことだと言う。

写真キャプション    
刀を手にしたチベット人暴徒として中国大使館が発表した写真から抜き出した(部分)

刀を手にしたチベット人暴徒として中国大使館が発表した写真から抜き出した(全体)

http://www.tibethouse.jp/news_release/2008/080322_lhasa.html
# by wayakucha | 2008-03-30 16:48 | チベット
ネパールでチベット人の子供達のデモを弾圧(BBC)
http://www.asyura2.com/07/asia10/msg/658.html
投稿者 忍 日時 2008 年 3 月 29 日 20:35:29: wSkXaMWcMRZGI


ネパールでチベット人の子供達のデモを弾圧
http://jp.youtube.com/watch?v=reoBGo2tsa8

[一言]矢張りネパールは、中国共産党によって支配されているのである。子供が抗議するほどチベットが酷いである。


●【カトマンズIPS=マーティ・ローガン、10月9日】

 国連によると、中国の国境警備隊に発砲されながらも43人のチベット人がネパールに逃げ込み、首都カトマンズに向かった。ネパールと中国の国境のエベレスト山から20km西にあるチョー・オユー山近くで、多数の登山者がこの事件を目撃した。

 中国は1950年にチベットを侵略し、中国の領土として言語や宗教教育を含む地域文化を抑圧した。その結果、毎年平均2,500人のチベット人が、亡命したダライ・ラマの率いるチベット政府があるインドのダラムサラへと、ネパール国境越えを試みている。

 チョー・オユー山を登ろうとしていた英国人登山ガイドが「チベット国際キャンペーン」に語ったところによると、9月30日、60人の登山者がいたベースキャンプでその事件は起きた。中国兵が70人以上の無防備なチベット人を狙って銃撃し、1人の尼僧が銃弾を受けて死亡したようだったが、誰も助けられなかった。

 カトマンズの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)には、2人の死亡を報告されている。「現在調査中であり、事実であれば中国当局に抗議する」という。UNHCRは難民の保護に向かっていると語ったが、途中で拘束されてしまう可能性もあるという。

 ネパールにはおよそ2万人のチベット難民が住んでいるが、ネパール政府は国際難民条約に調印していないため、法的身分がない。1989年に政府とUNHCRはいわゆる紳士協定を結び、チベットからの難民に第3国への中継地としての通過は認めることになった。

 2年前の調査では、チベットからの難民は徒歩かバスで平均34日かかってネパールにたどり着いていた。飢えに苦しみ、物乞いをすることもある。ネパールの国境警備隊に虐待を受けたものもいる。中国人に捕まると、さらにひどい処遇を受けた。

 調査員の1人は、「チベットの人々の人権と健康の状況は悲惨であり、UNHCRは中国政府に圧力をかけて難民を尊重し、拷問や恣意的拘束を防ぐ法律を守るよう求めるべきである」という。ネパールに逃げ込んだチベット人が中国兵から銃撃を受けた事件について報告する。(原文へ)

翻訳/サマリー=加藤律子(Diplomatt)/IPS Japan浅霧勝浩

●チベットは見捨てられるのか
2003年7月1日  田中 宇
 記事の無料メール配信

 ヒマラヤ山中の国ネパールは、中国とインドという二大国にはさまれた小国だ。ネパールは、中印双方に嫌われないよう、慎重にバランスを維持する外交政策を続けてきた。

 特にデリケートな分野の一つがチベット問題である。中国は自治拡大や分離独立を希求するチベット人の政治運動を弾圧してきたが、その一方でインドは、チベット人の最高指導者ダライラマら無数の難民たちをインド国内に受け入れ、中国に敵対するチベット人の運動を支援してきた。

 チベット難民がネパールへ逃げ出すのを阻止したい中国と、チベット難民を中国牽制の道具として使いたいインドという、相反する思惑の2大国にはさまれているネパール政府は「ネパールに逃げてきたチベット難民は、密入国してきたばかりの国境近くで捕まえた場合は中国に強制送還するが、国境を抜けて首都カトマンズ近くまでたどり着けた難民は、捕まえてもUNHCRに引き渡す」というバランス政策をとってきた。UNHCRは、ネパール当局から引き渡されたチベット難民をインドに行かせていた。

 ところがこの不文律は、さる5月31日に崩れた。ネパール当局はこの日、拘留中だった18人の難民を中国国境まで送還し、中国側に引き渡した。(関連記事)

 この強制送還の直前には、UNHCRと中国当局との間で、難民の身柄の奪い合いが起きている。18人の難民は捕まった後に裁判にかけられ、罰金(払えなければ懲役刑)を科す有罪判決が4月に下っていた。難民たちには罰金を払う資力がなかったので、UNHCRの意を受けたカトマンズのチベット難民センターのスタッフが5月29日に監獄に出向き、代わりに罰金を払って難民たちの身柄を受け取ろうとした。

 すると偶然、同じ時に在カトマンズ中国大使館の係官も、同じ難民たちの身柄を引き取りに来ていた。中国当局は、ネパール警察の助けを借りて難民たちを中国側に送還しようとするところだった。

 難民センターのスタッフが急いでUNHCRに電話連絡したため、中国とネパール当局が難民を送還しようとしているのが世界的に発覚し、大騒ぎとなった。チベット人や欧米の人権団体が反対したが、難民たちは2日後の5月31日に中国に送還された。(関連記事)

▼中国の人権侵害を黙認するアメリカとインド

 ネパール政府は、このときのチベット難民の中国送還について「例外的な措置だ」と表明したが、ネパールがチベット難民を中国に送還する傾向を強めたのは、最近突然始まったことではなく、2001年後半からのことである。(関連記事)

 しかも、ネパール政府がチベット難民問題で中国寄りの立場を強めていることに対し、インドは何も制裁的な措置を発していない。インドは、ネパールが中国寄りの政策をとることを黙認している。またアメリカは、インド在住のチベット難民たちに対し、UNHCRを通じて合計毎年20万ドルを拠出するなど、中国封じ込めの立場から、チベット難民の支援に積極的だった。(関連記事)

 だから、5月29日にネパール政府がチベット人を強制送還しようとしていることが発覚したとき、従来のアメリカの政策から考えれば、米国務省の高官がネパール政府に電話を入れて強く抗議しても不思議はなかった。そうすれば、2日後に強制送還が実施されることはなかったはずだ。

 アメリカ国務省は強制送還が行われた後、ネパール政府を批判する声明を出している。しかし、これは欧米の人権団体からの批判をかわすための発表だった可能性がある。イラク戦争後、世界中から恐れられているブッシュ政権がその気になれば、難民の強制送還を止めることは難しくなかったはずだ。強制送還は、アメリカとインドが黙認すると分かっていて中国が動き、ネパールはそれに従った結果、起きたと思われる。

 なぜそのような事態になるのだろう、と思っていたら、先日もっとあからさまな出来事があった。6月23日、インドのバジパイ首相が中国を訪問して発表した中印共同声明の中に「チベット自治区は中国領であり、インドは自国内でチベット人たちが反中国の政治活動を行うことを許さない」という一文が盛り込まれたのである。

 今回のインド首相の訪中をきっかけとして、中印関係はこれまでの敵対的な態度をやめ、経済分野を皮切りとして、親密な関係を築いていくことになると予測されている。こうした関係強化の犠牲になるかたちで、チベット難民のインド流出が止められるようになったと考えることができる。

 インドと中国の接近に歩調を合わせるように、今年に入ってダライラマの側近が2回中国を訪れ、中国政府とチベット問題の解決に向けた話し合いを行っている。インド外務省は「(中国と仲良くなっても)ダライラマを追い出すようなことはしない」と発表したが、このような発表が出てくること自体、チベット人たちが従来のようにインドで問題なく住める状態は、間もなく終わるかもしれないという懸念につながる。ダライラマが中国政府と話し合いを再開した理由がそこにうかがえる。(ダライラマと中国の交渉は1993年から途絶えていた)(関連記事)

 6月23日に、チベットが中国の一部だとインドが認めたのは、以前の見解をくつがえしたものではない。1950年にチベットが中国の統治下に組み込まれた後の1954年、すでにインドはチベットに対する中国の統治権を承認している。インドは今回、以前の承認をより明確にしただけだ。

 それでも、難民問題でネパールが中国寄りの態度に転換したこと、ダライラマが中国政府と交渉を再開したことと合わせて考えると、インド首相がこのタイミングで「チベットは中国領だ」と表明したことは重要だ。チベット人の自治要求運動は今後、下火にさせられる可能性がある。

▼冷戦とチベット問題の歴史

 しかし、それによってインドが得るものは、ほとんど何もない。チベットが中国の一部だとインドが認めたことは、シッキムがインドの一部だと中国が認めることと交換に行われたと報じられた。だが、インドの新聞サイトには「シッキムやカシミールはインドの一部であり、それを中国が承認しようがしまいが、大した違いはない。そんな承認と引き替えにチベット人の人権を踏みにじっていいのか」といった調子の論文が掲載されている。(関連記事)

(シッキムはチベットの南、ネパールとブータンにはさまれたヒマラヤ山中の小さな地域で、古くはチベット王国の属国だったが、1975年にインドが併合した。中国は「シッキムはチベットの属国だった以上、インド領ではなく中国領になるべき地域だ」と主張し、インドによる併合を承認していなかった)

 このような論調がある一方で、そもそも歴史を振り返ると、インドがチベット人の政治運動を引き受けたのは、人権を重視したり、チベットに対するインドの影響力拡大を狙ったりするために行ったものではないことも分かる。インドがチベット問題に首を突っ込んだのは、冷戦時代に中国封じ込めを狙うアメリカから頼まれたからだった。

 アメリカ政府は1950年、中国軍がチベット軍を打ち破ってチベットの占領を進め出したとき、チベットが独立国として存続できるよう協力すべきだとインドとイギリスに働きかけたが、拒否されている。(関連記事)

 アメリカは独力でチベット人組織を支援する介入を行い、1957年からCIAがチベット人ゲリラをサイパン島や米本土コロラド州などで訓練する軍事作戦が始まった。アメリカはダライラマにも亡命を勧め、いったんは断られたものの、1959年に中国占領下で身の危険を感じたダライラマはインドに亡命した。

 インドと中国(共産党政権)は、1947年と49年に、いずれも社会主義的な民族主義を掲げて建国した。そのため最初は仲が良かったが、その後米ソ冷戦が激化し、中ソ対立も表面化する中で、中印関係も悪化した。1962年にはカシミール北東部(アクサイチン)の帰属をめぐって中印が戦い、インドが負けてしまった。このあと、インド政府はアメリカの対チベット作戦に協力するようになった。

 ところがアメリカでは1969年にニクソンが大統領に就任し、冷戦下の中国敵視政策から、中国との国交回復へと政策を大転換した。ニクソンの当選が決まった1968年末、ダライラマのチベット亡命政府は、CIAから対中国軍事作戦の援助を打ち切ると通告された(ニクソンは、立候補したときから中国との国交正常化を方針にしていた)。(関連記事)

▼中国政治自由化の挫折と「人権外交」

 その後、ニクソンがウォーターゲート事件で追い落とされ、中国も文化大革命の混乱が続いたが、それらが落ち着いて中国がトウ(鄧)小平による近代化路線を走り始めた後、1979年に米中間の国交が正式に樹立され、再びチベット問題も動き出した。同年のうちにトウ(鄧)小平はダライラマの側近(実兄)を北京に招待し、チベット亡命政府との交渉を再開した。

 中国政府は当時、経済だけでなく政治も自由化するリベラル化を模索しており、トウ(鄧)小平は「チベット側が独立を希求せず、自治で満足するならば話し合いで問題を解決する」という姿勢を見せた。

 だが結局、中国政府は政治の自由化を成功させられなかった。そのクライマックスが、民主化運動が激高し、当局の弾圧で終わった1989年6月の天安門事件だったが、チベットでもこの3カ月前にラサで暴動があり、当時チベット自治区の共産党書記だった胡錦涛(現国家主席)によって、ラサに戒厳令が敷かれた。

 この前年の1988年には、ダライラマが「高度な自治が得られれば、チベットの独立を求めない」と表明し、インドのラジブ・ガンジー首相が中国を訪問して中印関係の好転を模索するなど、中国とチベットやインドとの関係を良くする努力も行われたが、天安門事件後、こうした流れも止まった。

 天安門事件後、アメリカは中国当局の民主化弾圧を非難し、中国に対する経済制裁を開始する「人権外交」をスタートさせた。アメリカの「人権重視」はヨーロッパなど「国際社会」を巻き込むことに成功した。だがこれは、政治のリベラル化を試みた末に失敗し、結果が天安門事件を起こしてしまったという中国側の事情を重視するなら、人権に名を借りた、アメリカ主導の新手の「中国包囲網」の構築だったといえる。

 アメリカは人権外交に基づき、中国側からネパールに入ってきたチベット難民をインドに移送する事業を1990年からUNHCRに開始させた。今年5月31日まで続いていたネパール政府のバランス重視の難民対策は、このときから始まった。

 天安門事件後はインドと中国の関係も冷え、1998年にインドが24年ぶりに核実験を実施したとき、インド政府はアメリカ政府に「中国の脅威に対抗するために核実験を行った」という趣旨の書簡を送っている。(中国は以前からインドの核武装に脅威を感じていないと表明しており、これは濡れ衣だったと指摘されている)(関連記事)

 チベットも、この流れの中で「反中国」の動きに転じた。ダライラマは1997年に台湾を訪問し、台湾国内の大陸系勢力の弱体化を狙う李登輝総統との親密さを世界に印象づけるなど「反中国」の活動を強化した。(関連記事)

 しかしこの時期、中国包囲網の主導者だったアメリカ自身が、再び中国と親密化する方向に転じていた。トウ(鄧)小平の改革開放路線が軌道に乗り、高度経済成長が始まった中国に対し、軍事的な利益を優先する封じ込め政策をとるより、経済的な利益を優先する親密化政策をとった方が良いという方針転換だった。

 2001年1月にクリントンから交代したブッシュ政権は、タカ派(ネオコン)と中道派の内部対立が外交政策にも影響を与え、政策が揺れる政権になった。タカ派は軍事的な世界支配の観点から中国封じ込め政策を重視し、中道派は経済的な利益から中国との親密化を維持しようとして対立した。

▼テロ戦争と中国包囲網の行方

 2001年の911事件後、さらに状況が変化した。タカ派は「テロ戦争」という新たな軍事的世界支配のロジックを得て、アフガニスタンのテロリストを退治するという名目で中国の裏側にあたる中央アジアに新しい米軍基地を作った。中国沖の太平洋岸に横たわるフィリピンでは、イスラムゲリラとの戦いに米軍が増派された。アメリカはインドとの軍事関係の強化も模索し、インドの基地を米軍が使えるようにすることを目指した。

 このように、テロ戦争という新たな大義名分を使ってアメリカが中国包囲網を維持強化できるようになった代わりに、チベットの人権問題を使った中国包囲網が以前より重視されなくなったのではないか、とも考えられる。

 以前の記事でいろいろと分析してきたとおり、米政権内部のタカ派と中道派の対立は、イラク戦争後も続いていると思われる。タカ派の国防総省は、軍事的な中国包囲網を維持する政策を続けているが、中道派の国務省はその逆に、北朝鮮問題の解決を中国主導で行うようにしたり、チベット難民の中国への強制送還を黙認するなど、中国が東アジアでの覇権を拡大できる素地を作っている。

 こうした米政権内部の食い違いが、戦略として故意に行われている(2種類の政策を使い分けている)のか、それとも対立の結果不本意な事態になっているのか、というあたりは、現時点では判断がつかない。

 6月末には、中国側からネパールに越境してきたところでネパール当局に捕まったチベット難民19人が、中国側ではなくUNHCR(アメリカ・インド側)に引き渡された。5月30日には中国寄りになったネパール政府は、6月30日には中国から距離を置くように再び態度を変えた可能性がある。(関連記事)

 ネパールがバランス外交を採らざる得ないことを考えると、この揺れは、ネパール政府の政策の変化というより、アメリカの政権中枢で、中国に対してどのような態度をとるか、チベット問題をどう扱うかという点に関して、揺れや内紛があることから起きていると思われる。

 6月23日からインドのバジパイ首相が中国を訪問したことはすでに書いたが、その翌日の6月24日にはパキスタンのムシャラフ大統領がアメリカを訪問している。アメリカ(国務省)がカシミール問題を中心としたインドとパキスタンの対立を解決しようとしているようだということは前回の記事に書いたが、パキスタンは軍事的、経済的に中国から多大な支援を受けてきた経緯があり、印パ対立を解決するには中国の力を借りることが必要だ。

 そう考えると、まずチベット問題など中国とインドの間に横たわる問題を放棄し、中印関係を良好にすることが、パキスタンの問題を解決し、アフガニスタンや中東をも安定化させることにつながってくる。(関連記事)

 多くのチベット人が中国の圧政下で不幸な生活を送ってきたが、その一方で、圧政から逃れるためにはアメリカの世界支配の「道具」になることが必要で、アメリカの対中政策が揺れるたびに振り回されてしまう、というのもまた国際政治の現実なのだった。

http://tanakanews.com/d0701tibet.htm
# by wayakucha | 2008-03-29 21:34 | チベット